同人詩誌『季刊26時』が到着
『季刊26時』をご恵送頂きました。
実は同じく詩誌『ねこま』,『repure』も拝受致しておりましたが,ここのところ多忙を極めていてブログで報告できておりませんでした。そちらについても後々書かせて頂ければと思っております。
さて,『季刊26時』ですが,いちど『現代詩手帖』にて紹介されているのを見かけてから,ずっと興味を持っていた同人詩誌のひとつでした。
Twitterでもフォローさせて頂いております(@kikan_26)。
手に取ると表紙の手触りがよく,適度な重量(今回は厚めだったらしいです)と感じの良い相互作用を生み出しています。表現が些か大袈裟に見えるかもしれませんが,これは製本された本を手にとる醍醐味の一つと言えるでしょう。私もやってることがアレなので利便性からどうも近頃は電子書籍に傾倒せざるを得ませんが,やはり紙媒体を手にとって捲る感覚はいいものです。
紀行文に続き,製作者の方々の詩があり,寄稿・投稿作品へ。この境目に入るインデックスにすらも,デザイニングに細かい配慮が見られます。
内容も,題詠と自由詠があります。製作者の方々が3人いらっしゃるようですが,お三方ともそれぞれにクセが違います。当然といえば当然ですが,同じ題目でもそれぞれの切り取り方があり,それを対比しながら読み進めると,内容面/形式面ともに様々な面白い発見があります。
実は私のアレも投稿作品の中に混じっているというアレなのですが,そこにたどり着くまでがカッチョイイので,私の作品もすごくまともに見えます(あ,もちろん,この自虐的表現は創作の手を抜いたことを意味しません)。よく考えてみると,このペンネームでは掲載された初めての作品と言うことになります。。。
この作品は,少々中二病臭いにも拘らずそれをオブラートに包むこともしていない(ようにみえる)のでやや人によってはただただアレなイメージを受けるかもなのですが,以前より書きたかった類のものです。
詩の解釈など書き手の手を離れた瞬間に自己組織化するものですから,あまり深い言及は慎むべきでしょうが,一言だけ言わせていただくと,「オブラートに包むべき内容のオブラートで包むことを試みた作品」です。可愛がってあげてください。
掲載にあたり,『季刊26時』の佐々木青様には,幾つかのやり取りを通じて暖かい御言葉と御支援を頂きました。また製作に関わられた方々にも同様,この場を借りてお礼を申したいと思います。ありがとうございました。
酒を20~30倍で薄めて水代わりに飲むのにはまってる友達に乗っかってみた
首記の通り。
学部時代の友人(若かりし頃の飲んだくれ廃人友達)がskypeで
「最近ね,酒を20~30倍で薄めて水代わりに飲むのにはまってる」
というもんだから。
彼はウイスキーやフレイバードウォッカでこれしてるらしい。
で。
最近,ニッカウヰスキー『白州』とライムをもらう機会があったので,これをつかってやってみることに。
まずライムを円形に切ります。
こんなかんじ
それをコップに投入*1。
これだけ切っただけでもかなり強い柑橘系の香りがします。
デーン
そして白州を注ぐ。その後水。
完成。
試飲。
・・・甘い!
白州はもともと甘味のあるウイスキーだけど,これだけ希釈しても香りと甘みがしっかり残る。もちろんアルコールは薄まるけれどこれはこれでアリか。
友人曰く,「割りものとしてではなく,あくまで水」として飲んでいるとのこと。
まあ酒としては幾分”邪道”な飲み方ですが,のどの渇きをいやすフレイバード水,てな勢いで如何でしょう?
書くということ,書き続けるということ
ここに書きとめられた文章,ツイッタ―に書き落とされたつぶやき,日々自分が残す回顧的なメモなど,自分自身が筆を執ったり打ち込んだりした文章を眺めていると,最近思うことがある。
私は大学学部生の頃まで,かなり頻繁に雑文を書いていた。それはブログであったり,mixiの日記であったり,形態は様々だった。時には小説家になりきって文字を連ねたこともあったし,また時には評論家気取りで文章を綴ったこともあった。しかし,大学を卒業する前後から,私はめっきりこの手の雑文を書かなくなった。以前ほど強い主張を押していけるほどのバイタリティーが歳を取ることでなくなってしまったのかもしれないし,あるいは学ぶことによって臆病になったのかもしれない。もしくは周りの目を気にするようになったのかもしれない。
その弊害は,単に文章を書くのが下手になっただけではなく,思わぬ形で発露した。一言で言うと,概念を明示化する能力の低下だった。
確かに私は曲がりなりにも文章を書くことをある種生業にする訓練を受けている人間なので,文章を読まない日や書かない日は皆無であると言っていいほどない。しかしそれは分野に特化した内容を読み,書くといった作業である。これまで議論され尽くしたかのように見えるほどの積み重ねのある内容を,ある程度決まった形で文章化し,分野の言い回しに従って綴る。それは内容の誤読のない伝達を第一義とし,根拠のない己の考えや心情的抒情的要素を捨象する文章とも言える。じじつ,私が日頃書いている文章にこれほど多くの文末表現は現れないし,語彙やレトリックもこれほど(あくまで個人内での相対的な比較ではあるが)豊かではない。もちろん文章というものにはそれぞれの役割があり,それに従ったカタチがある。上記したものはただその特徴を叙述したに過ぎず,それ以上の意味はない。
ただし,ここで注意しなければならないのは,ここで使用される言葉はあくまで伝達のための目標規定的なものであるということだ。言葉は他者に意味を伝達する役割だけではなく,思考の道具としての役割もある(その他言語の持つのさまざまな役割に関しては本筋とあまり関連がないのでここでは省く)。私はこの思考の道具としての言葉の使用を思いのほか長い間怠ってきたと感じている,というのが序文であらわした「最近思うこと」だ。
なのでこれから,もう少し昔に戻って,私は書いてみようと思う。書くことは書くことに対するレディネスを上げ,文章を読むときのセンシティビティをも活性化させる。そのセンシテビティはインプットの質を上げ,それが新たに書くものの質と有機的に連動する。書き続けることで書くことのハードルは確実に下がっていく。
今の私にとってこの長さの文章を書くことは―その時の気分にもよるが―しばしば幾分苦痛の伴う作業である。しかし,その「毎日文章を書いていた時期」は少しも困難を伴わなかったように思う。それは毎日書いていたという一見堂々巡りに見える事実が証明している。
畢竟,習慣というのはそういうものだ。
珈琲
昔のブログでは役に立つ情報のみを共有するべきであると言われ続け,
クソどうでもいい情報を垂れ流すと怒られたものだったが(例えばメモ程度にExcel関数のtipsとか書いてたらそんなことは誰でも知っていると怒られた),
現在のこのブログは100%自分の趣味のブログなので内省的なこと書いても誰も文句言わない素晴らしい実に素晴らしい
私はコーヒーが好きだ
ああどうしよう怒られないかむず痒くなってきた
えっと,そう,私は学部生時代に,1セメスター(半年くらい)の間,アメリカに行き心理学の講義を受講していたことがある。
実はその時はまだコーヒーが苦手だった。苦くて飲んだら頭痛くなるアレというイメージしかなかった。
しかしそんな中,向こうで親しくなったフランス人にコーヒーをいれてもらう機会を持つことができた。今思えばフレンチプレスによる浸漬抽出だった。
そこで飲んだコーヒーは苦過ぎず薄過ぎず,まろやかなのにこってりし過ぎず,まぁ,とりあえず驚くほど美味しかった。(そのフランス人の彼に言わせれば,「アメリカ人はコーヒーのいれ方を知らない。」だそうだ。実にフランス人の良いそうなセリフだが,彼はイケメンだったので絵になった。)
私はその次の日には,コーヒーの粉とペーパードリップをするための道具一式を購入した。
最初はそれなりに飲んでいたモノの,徐々に香味に酸味が勝りはじめ,コーヒーが嫌いな頃に飲んだことがあったあの苦い煮汁を彷彿とさせる味になっていった。調べたところ,どうやら粉は酸化しやすく,保存状態にも気を配らないといけないということだった。
ということで,コーヒーミルと小瓶を購入し,豆は挽く前の状態で買って小瓶に入れ,冷凍庫に保存するようになった。にわか珈琲好きの誕生である。
一貫性はあんまりないが,コロンビア・グァテマラ・キリマンジャロが好き。あと特に冬はモカ。何故かは知らないけど。
また機会があったらコーヒーの話を書いてみようと思う。誰が読むのだろうという感じだけど,やっぱり気兼ねなく自分の好きなことについて徒然と綴られるのは楽しい。
意思性
日本語の動詞の用法においてその意思性が問題になることが多々ある。
それは日本語の自動詞/他動詞という区別で表されることがあるがそれだけで区別できないことも多い。
例えば,
いま私は壁を壊している
というのは動作の継続を表し、
壁が壊れている
というのは状態を表す
これは自他の区別だけでは説明できない。
外国語話者で日本語を学んでいる人にはこの間違いをする人が多い。例えば
*詩人になるように詩の本を読んで勉強している
とは言えない。
ようには無意思なものにしか接続しないからだ。
まぁそんなことはどうでもよくて、この動詞の意思性を詩にうまく取り込んでるなぁと思う表現をよく目にする。
「転がって行く」というのは,自分の意思ではどうにもできない状況を表すことができる。とても好きな表現だ。
燻し
自分に好きな事に理解を示し、共感してくれ,ましてや一緒に取り組んでくれる人の存在の大切さを語るのは,余りにありきたりな三文小説の内省だが,そんな人が一人側から居なくなった時に初めて考えるわけだ,その行動の一つ一つは,私という人間をより深く知ろうとする試みの最も献身的な形であったことを,考えるわけだ
大人の階段登られはしない
私は学部時代は軽音楽部に所属し,「こんな軽い曲しか演らないような腑抜けた場所でぬるま湯に浸かってちゃ俺のやりたい音楽はできねえ!」とかなんとか言って一年で退部した反骨精神旺盛なハードロッカーだったわけですが,
最近エリッククラプトンの "Change the world" がなんかすごくいい。
ちょっと渋いアコースティックのソロギターへ絡むクラプトンのブルージーな声に対し,"If I could change the world, I would be a sunlight of your universe." というなんとも若々しい歌詞。
若々しいけど, "I can change the world, I will be a sunlight of your universe!" …ではないんですよね。
色んな物を見て色んなことを知って,ちょっと大人になり,自分の小ささを感じつつ,しかしながら若々しく丸みを帯びつつもまだ尖ったこの萌芽のような気持ち,希望を捨てたくない…という対極から来るある種の葛藤を見事に描き出しているように感じられます。
見事です。
さて,で,最近久々に物欲がフツフツと湧いてきたのですよ。このIbanezのArtcore Custom (写真参照)。
えぇフルアコです。一目惚れです。アレキシ・ライホとかダイムバック・ダレルとか頑張ってコピーしてた私が。せめてセミアコにしときゃオアシスくらい弾けるのに…と。
まぁウェス・モンゴメリーとかケニーバレルとか好きなんでその辺はいいんですが,ジャズは弾けません。でも欲しいんです。
あ,金がありません。
…科研費で落とすか…(そんな身分でもありませんしそんなことしちゃダメです
まだまだ渋い大人になるには踏むべきステップが多いようです。はぁ。