追い抜かれたものだけが存在する紙の上

詩,歌,掌編とかを趣味にする人の徒然

書くということ,書き続けるということ

ここに書きとめられた文章,ツイッタ―に書き落とされたつぶやき,日々自分が残す回顧的なメモなど,自分自身が筆を執ったり打ち込んだりした文章を眺めていると,最近思うことがある。

 

私は大学学部生の頃まで,かなり頻繁に雑文を書いていた。それはブログであったり,mixiの日記であったり,形態は様々だった。時には小説家になりきって文字を連ねたこともあったし,また時には評論家気取りで文章を綴ったこともあった。しかし,大学を卒業する前後から,私はめっきりこの手の雑文を書かなくなった。以前ほど強い主張を押していけるほどのバイタリティーが歳を取ることでなくなってしまったのかもしれないし,あるいは学ぶことによって臆病になったのかもしれない。もしくは周りの目を気にするようになったのかもしれない。

 

その弊害は,単に文章を書くのが下手になっただけではなく,思わぬ形で発露した。一言で言うと,概念を明示化する能力の低下だった。

確かに私は曲がりなりにも文章を書くことをある種生業にする訓練を受けている人間なので,文章を読まない日や書かない日は皆無であると言っていいほどない。しかしそれは分野に特化した内容を読み,書くといった作業である。これまで議論され尽くしたかのように見えるほどの積み重ねのある内容を,ある程度決まった形で文章化し,分野の言い回しに従って綴る。それは内容の誤読のない伝達を第一義とし,根拠のない己の考えや心情的抒情的要素を捨象する文章とも言える。じじつ,私が日頃書いている文章にこれほど多くの文末表現は現れないし,語彙やレトリックもこれほど(あくまで個人内での相対的な比較ではあるが)豊かではない。もちろん文章というものにはそれぞれの役割があり,それに従ったカタチがある。上記したものはただその特徴を叙述したに過ぎず,それ以上の意味はない。

ただし,ここで注意しなければならないのは,ここで使用される言葉はあくまで伝達のための目標規定的なものであるということだ。言葉は他者に意味を伝達する役割だけではなく,思考の道具としての役割もある(その他言語の持つのさまざまな役割に関しては本筋とあまり関連がないのでここでは省く)。私はこの思考の道具としての言葉の使用を思いのほか長い間怠ってきたと感じている,というのが序文であらわした「最近思うこと」だ。

 

なのでこれから,もう少し昔に戻って,私は書いてみようと思う。書くことは書くことに対するレディネスを上げ,文章を読むときのセンシティビティをも活性化させる。そのセンシテビティはインプットの質を上げ,それが新たに書くものの質と有機的に連動する。書き続けることで書くことのハードルは確実に下がっていく。

 

今の私にとってこの長さの文章を書くことは―その時の気分にもよるが―しばしば幾分苦痛の伴う作業である。しかし,その「毎日文章を書いていた時期」は少しも困難を伴わなかったように思う。それは毎日書いていたという一見堂々巡りに見える事実が証明している。

畢竟,習慣というのはそういうものだ。