追い抜かれたものだけが存在する紙の上

詩,歌,掌編とかを趣味にする人の徒然

物語、そして論文

小さい頃からよくものを書いてきたからか、書くことにはあまり心理的な抵抗はない。うまいか下手かは別として、極端に文法的に変なものを書くわけでもない、らしい。

 

私は院生なので、本業は研究を行い、結果を論文にまとめることなのだが、どうもよく言われるのが「お前のレトリックは科学論文のものではない」ということ。

 

一人一人登場人物が詳細に描かれ、それらの振る舞いも描写し、さあなにか事が起こった、犯人はこの中にいる…そんな構成でうまく読者を惹きつけられればいいのだけれど、それは物語などの場合(ちなみにこの「など」の多用も科学論文ではしばしば忌避される)。

 

ただでさえ複雑な内容を、誤解なく、かつ簡潔に伝えるために、科学論文にはそれ相応の構成、枠組みが用意されている。

 

抄訳で問題点、解決方法、結論を最初に簡潔に示す。先行研究のレビューで扱った内容は必ず本実験の結果後、議論で収束させる。トピックセンテンスは段落の最初に書き、そこに詳細を付け加える、とかとか。決して最後まで読んでやっと犯人がわかった、というサスペンスではいけない。

 

短歌や俳句が、定型や、例えば季語、詩でいうソネットの規則…などを初めとする細かいルールの縛りがあることで、その場に合った語、句、さらに高次の表現が極限まで洗礼されるというように、論文の厳格な形式にもそれなりの理由があるということ。

 

ただし、私はまだなかなかその科学論文の構成、レトリックに慣れないでいる。困った。

ぐぬぬ。

詩が書きたまってきた。

 

 

他の人はどうかわからないけど,私は気分が滅入っているときのほうがよく書ける。

正確に言うと,気持ちが極端に動いている時の方が筆がよく動き,書いたものの勢いも違ってクオリティーが高い,気がする。だけど,気持ちが上がっている時より,沈んでいる時の方がよく書ける。

 

ここ最近はわりと忙しくしていたのであまり内省的になる余裕もなかったからか,音楽も書く方も,「情意的活動」方面はだいぶご無沙汰だったけど,久々にどっか投稿してみようか,なんて考えていたり。なんだったり。

 

その前に,このブログに引っ越してきた最初に書いたように,そういえば,固定したペンネームもハンドルネームもまだねーんだよどうしよう。

はっきり言って学部時代の創作はもう黒歴史なので誰にも公開したくない。よって当時の名前も使いたくない。

 

ぐぬぬ。

「どんな研究やってるんですか?」

「どんな研究やってるんですか?」

と,全く専門外の人に言われたらどんなふうにこたえるのか記述してみる。

 

「むかーしむかし,おじいさんとおばあさん住んでいました。

おじいさん山へ芝刈りに,おばあさん川へ洗濯にいきました。」

 

この太字で示した「は」と「が」って,私たちは絶対逆にしないんですよね。

 

「むかーしむかし,おじいさんとおばあさん住んでいました。」
おじいさん山へ芝刈りに,おばあさん川へ洗濯にいきました。」

 

やっぱりなんか変。

 

でも,私たちは誰にもこの「は」と「が」の使い分けのルールを教わっていない(そもそも厳密には言語学でも「は」と「が」の使い分けの規則が完全に記述・説明されているわけではない)。でも絶対に逆には書かない,ということは,ここには何らかのルールが働いている―そして,私たちは説明もできない規則を完全に間違いなく,かつ高速で使いこなしている。

 

不思議だねー。

 

でも,それが外国語学習者になると,知識が説明できる・できない/使える・使えないの2×2のマトリックスであらわされるようになる。

例えば,日本語話者にとって日本語は「規則が説明できないのに使える」。でも学習者には,それに加えて「説明できて使える」規則,「説明できなくて使えない」規則はもちろん,「説明できるのに使えない」規則もある。

 

不思議だねー。

 

じゃあ「知ってる・説明できる」だけの知識が,どんなプロセスで「使える」知識になるんだろうか,そんな研究をしています。

 

昔からよく分野を問わず読書をしたり何かを書いたりと,ことばが好きだったのと,家庭の海外志向性が結び付いた結果なのではないかと思う。

内省的な、極内省的な

「文系の研究者ってなんか意味あんの?」

「文系で大学院いってその後仕事あんの?」ぐらいは幾度となく浴びせられた言葉だったが、さすがにここまで極端な尋ねられ方は初めてだった。理系優越イデオロギーと、私が昔から「○○県立向○高等学校的スノビズム」と呼んでいる概念が結びついた典型例であり、ここまでくると清々しさすら感じる。


残念なことに、誠に残念なことに、自分は地頭が良いわけでもなければ、天才肌というわけでもない。確かにこれまで私は、好きなことをやってるだけだった。私にとっては、ドラゴンクエストをプレイするのもHUNTERXHUNTERを読むのも現代詩手帖に毎月目を通すのも論文を読むのも同じ感覚だった。

学部の終わりの頃から様子が少しずつ変わってきた。思えばこの、アカデミアに賭けてる的な一見してかっこよくもっともらしいレトリックによって色々なことを言い訳してきただけのような気がしないでもない。他人からの評価なんてどうでもいい、考える時間と認知資源が勿体無い。そうだ、自分ぐらいのレベルなら余裕なんてなければないほうがいい。少なくとも自分の目指すところは遥か遠い。かといって今の自分は着実に歩を進めているかと言えばどうなんだろうか?
時間がない→娯楽をやめてひきこもれ。時間ができた→結果が上がらない。これじゃ意味がない。

匿名ブログが内向き社会だというのは、こういう類の日記を産んでしまうのでその辺は良し悪しだなと思った。まあ、書かなきゃいいじゃんと言われるものだけど。

真夜中の惨劇

夜、暗闇のなかで無意識にケータイの充電コード引っ張ったみたいで、
ケータイ本体がミサイルのように顔面に飛んできて、下唇のあたりを攻撃。
口内を切り、抱き枕(白)が真っ赤に染まる大惨事になりました。
更に、寝るために布団に潜り込もうとして布団を引っ張りあげたら、その布団の上にケータイが乗ってて、直下型爆弾よろしく眉間に落下
 激痛で真っ赤になった。

 

PAC3の配備が必要だ。


まじ逆間接入れてやろうかと思った。

そんな事故にもめげず僕は今日も生きる。

あーふぁっ○。

『Prozac Nation: Young and Depressed in America』

時間ができたので,なんとなく映画を借りてきてみた。ゲオが徒歩五分のところにあり,一本100円で借りれるので,私のような貧乏人映画好き(ただしそんなに詳しくない)にはたまらない。

Prozac Nation: Young and Depressed in America」

アマゾンレビューによると,
「刻なうつ病に陥った日々の心の地獄を綴った自伝。うつの気持ちのありのままを書き,うつ病患者がどう感じるか、経験の事実のみを綴り、うつ病が生活を、更に命を奪ってしまう深刻な病気であることを伝える。」
だそうだ。
しかしなんとも解釈が難しい映画だった。
うつ病を題材にした映画というのは得てして「結局鬱は幸せになれないのね」的な結末になるものだけど、この”Prozac Nation”はどっちかっていうと
「うつだっていいじゃないか にんげんだもの みつを」
的な感じ。いや,それではちょっとチープすぎるし,もっとずっしりと重い内容だったけれど,終わり方としてはグッドエンディングでもバッドエンディングでもない。これからも彼女はなんとかこの鬱と折り合いをつけていくのだろうと視聴者に想像させるかのような終わり方だった。

原作が鬱の人の自叙伝だけあって、その描写は徹底的にリアリスティック。
愛情表現は傍の「健常者」から見れば「病的」である。いわゆる,「病的に好く」という状態だろうか。自分が中心であり,誰と比べても,比べられることすら不毛なくらい,かけがえのない存在であって欲しいと願う。
しかし,というより,それ故の,溢れるほどの伝えたい物事・感情とは裏腹に,相手を突き放し,傷つける。その症状は皮肉なことに大切な人に対してほど顕著である。愛しいほど,いや愛しいが故に,壊してしまう。しかしそれは健常者の友人には理解され得ない。
結局,そうしたことからあまりに多くの孤独感を募らせた人間の行きつく先は「ドラッグ」や「セックス」,「アルコール」である。しかし、それらは決して心を満たしてくれるようなものではない。虚無感が募り,その解消の糸口を求めて、彼女は更にドラッグやセックスを重ねる。しかし何をやっても,そしてどこに当たっても,その虚無感は絶対に解消されることがない。唯一それを解きほぐしてくれるかに思えた恋人ですら,自らの手で突き放し,壊してしまう。

「好きでやってるように見える?」

その言葉がすべてを代弁しているように思う。

うつ病患者は常に死と隣り合わせである。彼らは衝動で死ぬ。死ぬのが痛いとか怖いなどとは違う次元で死を選択する。死を覚悟したうつ病患者に最も強く歯止めを掛けるのは友人や親兄弟,恋人の存在だそうだが,そのほとんどを失った彼女を制したのは何だったのだろう,などと考えさせられる。




それにしても毎回思うんだけどこういう映画って「健常者」の聴衆の目にはどう映るのかな。

「社会」から取り残された院生が考えること

いきなり放置かましました。

 

幸か不幸か最近は忙しいです。

家を出る時間は朝8時の日もあれば11時過ぎの日もあるのですが,帰宅するのは毎回だいたい終電です。

夏になると修士論文の中間発表をこなさなければ修了できないので,それなりに必死です。

 

で,今日も学部生時代の同級生,現在会社員やっている友人から電話がかかってきて,ちょっとお話したわけですが,まあクソ貧乏人乙,といった感じで。

しらんがなだよなあ。

確かに,はたらけどはたらけどわがくらし楽にならざりって感じだけどなあ。ぢつと手を見たりしてなあ。

 

今年は学会発表が7本決まったりして,人並みに社会貢献をしてきているつもりなんだけど,金が入ってナンボってもんなんだろうなあ。彼らが言う「社会」ってところでは。

 

むむ,この話題に関してはどこまでも書き連ねられるんだけど,いきなり愚痴っぽいのもあれなのでこの辺で。

まあ,やるべやるべ。