追い抜かれたものだけが存在する紙の上

詩,歌,掌編とかを趣味にする人の徒然

「どんな研究やってるんですか?」

「どんな研究やってるんですか?」

と,全く専門外の人に言われたらどんなふうにこたえるのか記述してみる。

 

「むかーしむかし,おじいさんとおばあさん住んでいました。

おじいさん山へ芝刈りに,おばあさん川へ洗濯にいきました。」

 

この太字で示した「は」と「が」って,私たちは絶対逆にしないんですよね。

 

「むかーしむかし,おじいさんとおばあさん住んでいました。」
おじいさん山へ芝刈りに,おばあさん川へ洗濯にいきました。」

 

やっぱりなんか変。

 

でも,私たちは誰にもこの「は」と「が」の使い分けのルールを教わっていない(そもそも厳密には言語学でも「は」と「が」の使い分けの規則が完全に記述・説明されているわけではない)。でも絶対に逆には書かない,ということは,ここには何らかのルールが働いている―そして,私たちは説明もできない規則を完全に間違いなく,かつ高速で使いこなしている。

 

不思議だねー。

 

でも,それが外国語学習者になると,知識が説明できる・できない/使える・使えないの2×2のマトリックスであらわされるようになる。

例えば,日本語話者にとって日本語は「規則が説明できないのに使える」。でも学習者には,それに加えて「説明できて使える」規則,「説明できなくて使えない」規則はもちろん,「説明できるのに使えない」規則もある。

 

不思議だねー。

 

じゃあ「知ってる・説明できる」だけの知識が,どんなプロセスで「使える」知識になるんだろうか,そんな研究をしています。

 

昔からよく分野を問わず読書をしたり何かを書いたりと,ことばが好きだったのと,家庭の海外志向性が結び付いた結果なのではないかと思う。