追い抜かれたものだけが存在する紙の上

詩,歌,掌編とかを趣味にする人の徒然

内省的な、極内省的な

「文系の研究者ってなんか意味あんの?」

「文系で大学院いってその後仕事あんの?」ぐらいは幾度となく浴びせられた言葉だったが、さすがにここまで極端な尋ねられ方は初めてだった。理系優越イデオロギーと、私が昔から「○○県立向○高等学校的スノビズム」と呼んでいる概念が結びついた典型例であり、ここまでくると清々しさすら感じる。


残念なことに、誠に残念なことに、自分は地頭が良いわけでもなければ、天才肌というわけでもない。確かにこれまで私は、好きなことをやってるだけだった。私にとっては、ドラゴンクエストをプレイするのもHUNTERXHUNTERを読むのも現代詩手帖に毎月目を通すのも論文を読むのも同じ感覚だった。

学部の終わりの頃から様子が少しずつ変わってきた。思えばこの、アカデミアに賭けてる的な一見してかっこよくもっともらしいレトリックによって色々なことを言い訳してきただけのような気がしないでもない。他人からの評価なんてどうでもいい、考える時間と認知資源が勿体無い。そうだ、自分ぐらいのレベルなら余裕なんてなければないほうがいい。少なくとも自分の目指すところは遥か遠い。かといって今の自分は着実に歩を進めているかと言えばどうなんだろうか?
時間がない→娯楽をやめてひきこもれ。時間ができた→結果が上がらない。これじゃ意味がない。

匿名ブログが内向き社会だというのは、こういう類の日記を産んでしまうのでその辺は良し悪しだなと思った。まあ、書かなきゃいいじゃんと言われるものだけど。